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獏迦瀬: | 柄谷さんの『倫理21』(平凡社)評判いいようですねー。
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伊丹堂: | そのようじゃな。
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獏迦瀬: | ひるますさんも「早くも今年のベスト10」とか言ってましたね。 |
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伊丹堂: | アレは二枚舌じゃからな(笑)。で、お前さんは読んだのかい?
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獏迦瀬: | もちろんですよ。ボクもひじょーに面白いとは思いました。なんか上の大澤真幸さんの「責任論」についての話と完全にリンクしてる感じでしたね。
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伊丹堂: | そりゃコトが「倫理」を巡るものである以上、リンクするのは当然といえば当然ってことになるけどね。ワシ的には倫理や責任は「形而上学的なもの」とメイカクに打ち出したって点がなんといっても我が意を得たりじゃな。 |
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獏迦瀬: | 上で言っていた「社会的な状況として責任を確定しにくくなっている問題と、それぞれの人の内面的・実存的な問題」の区別がハッキリ打ち出されてるってことですかね。 |
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伊丹堂: | ちゅーこっちゃね。それさえハッキリすれば後はなくてもいい、と言ってもいいくらいじゃ。 |
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獏迦瀬: | なくてもいいってとこが妙に強調されてる気がしますケド…。 |
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伊丹堂: | まっそう勘ぐるでない。言葉のアヤじゃ。しかしワシゃホント、その点に関して、よー言ってくれたと感心してるんじゃ。 |
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獏迦瀬: | そうですか…。でもそこがクッキリしたぶん、他のところが分かりにくくなっているという面もあるように思うんですが。 |
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伊丹堂: | オッ言うねぇ。 |
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獏迦瀬: | てゆーか、今までのこのサイトでの倫理をめぐる話を踏まえればとーぜん出てくるギモンがあるわけですよ。たとえば柄谷さんは「自由であれ」という命令に従って行動し、自分を自由な主体である「かのように」みなしたときにはじめて「倫理」的に責任を問うことが出来るとしていますが、いったい全体どうして人がそういう命令に従ったり、そのような「主体」とみなしうるのかってことが何も説明されてないように思うんですが…。 |
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伊丹堂: | わはは。当然そこを言うだろうと思ったぞ。というかこれまでの流れからすれば、当然ワシがそこを言ってもおかしくはないってことじゃな? |
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獏迦瀬: | そーですよ。 |
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伊丹堂: | ところがこの柄谷さんの論に関して言えばそーいう問いはいちおう問題外というか、そういう問いを免除されてるといってもいい。 |
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獏迦瀬: | そんなぁ…。 |
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伊丹堂: | というのは、柄谷さんが言ってるのは、ともかくそういう風に自由という義務に従い、自由な主体とみなして責任を引き受けるということを「倫理」と呼ぼう、ということに他ならないからじゃ。ようするに「定義」の問題なんじゃよ、これは。だから「どうしてそうしうるのか?」という「説明」は不要というのが当然で、それを他の「理由」によって説明したらむしろそれが「倫理」についての定義でもなんでもなくなる…、そういう「論理構成」になっとるわけじゃよ。 |
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獏迦瀬: | なんか身も蓋もない説明ですが…。 |
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伊丹堂: | じゃが、そこをハッキリさせることで風通しのいい議論が可能になる。ただし柄谷さんは言ってないけど、この「倫理」についての定義は、あくまで「我々にとって」のものだということをハッキリさせとかんとな。ようするに超越論的観点というか、分析的(カント的に言えば「批判」的か)に観察する視点からすれば「倫理」とというものは、そういうふうに定義できる、ということじゃ。それと同時に、その対として「当事意識にとって」という観点があるってわけじゃ。 |
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獏迦瀬: | あ、その区別は前にもチラッと出てきましたね。おおもとはヘーゲルですか? |
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伊丹堂: | まぁそんなことはどーでもいい。「人がいかにして倫理的でありうるか?」という問いは、この当の本人というレベルの問題なんだね。逆に言えば、そういう定義がハッキリしていなくては、ナニが倫理的でナニがそーでないかも実ハ言えないということになる。そういう意味で議論が風通しがよくなる、といったワケよ。 |
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獏迦瀬: | ナルホド、というか、まだイマイチよく分かりませんが…。結局、そういう定義どおりの倫理的行為ってのは、現実には「ない」んだってことになるんでしょうか。 |
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伊丹堂: | ちゅーこっちゃ。たとえばその当人がいかに「倫理的」に行為したとしても、その本人のアタマの中で実際に柄谷さんが言うような「定義」どおりのコトが起きている必要はないわけじゃ。というのはこの「定義」はカントが「発見したコト」なわけじゃろ。しかしカントがそんなコトを発見する以前に倫理的な人がいなかったハズがない。「自由であれ」なんていう哲学的なコトバを知らなくたって充分「倫理的」だった人はこの歴史の中で数多くいたわけだし、むしろそんな哲学的コトバを知らない人の方がよっぽど倫理的だなんてことはおうおうにしてあるわけじゃ。 |
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獏迦瀬: | 屁理屈っぽいですが、意味は分かりました(笑)。でもその「定義」がカントによって「発見されたコト」だということは、それは他にも言いようがあるってことになるんじゃないでしょうか。 |
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伊丹堂: | そーじゃよ。ロールズの「無知のヴェール」(土屋恵一郎『正義論/自由論』について参照)でも同様な内容が語られているし、柄谷さん自身も例えば「自由であれ」という義務は、サルトルの「自由の刑に処されている」でも同じと言っているように、これはサマザマに言いかえ可能だってことじゃろ。 |
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獏迦瀬: | つまり前に言ってた「内的論理」の問題ってことですか。 |
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伊丹堂: | よーするに「倫理的」というコトのエッセンスがどう表現されているかの問題ってこっちゃな。たとえば「自由であれという義務」は、ある行動や思考をする際に、それが「共同体の規範にのっとって」とか「実際問題としてそうするよりしょうがない」「そうした方が身体的な快感を得られる」というようなメイカクに外部的な理由によって、つまり「他律」によって、なされるのではない、というエッセンスを表現したものと考えていいわけじゃ。 |
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獏迦瀬: | 共同体的な規範にのっとったものは「倫理」ではない、柄谷さん的に言えば、それは「道徳」だ、という分類は痛快でしたね。 |
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伊丹堂: | ワシ的に言えば、世間は「非―倫理的」行為のヨリドコロ、というところじゃな。ついでに言えば、なんらかの明示的な意味での「第三者の審級」にしたがってなされる行為は、すべて「倫理」ではないってことになる。これについてはくどいのでもう繰り返さないがな。 |
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獏迦瀬: | 柄谷さんもフロイトの超自我と死の欲動というところで、共同体規範の内面化という説を否定してましたが、そこらへんもリンクするところですね。つまり柄谷さんはフロイトのいう「超自我」を道徳的でなくて倫理的なものとみているわけで、これは共感しました。ただそこで「死の欲動」というリクツが必要なのかどーかは疑問でしたが…。 |
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伊丹堂: | そう「物語」になっとるからな。人間の攻撃性が内攻して、自分自身を制御する機能になるって話なんだけど、人間が自分自身をコントロールする能力があるってことにそういう「攻撃性」という「起源」を付け加えることが、果たしてイミあるのかってとこだな。ここらへんは「唯物論者」柄谷行人がフィーチャーされてるとこだってことかな。 |
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獏迦瀬: | ひるます氏なら「生き方のモード」って言ってすますとこですね。 |
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伊丹堂: | アレは楽天家だかならな。それはともかく、話をもどすと、カント=柄谷さんの定義では、次に「主体とみなす」というファクターが出てくる。ここは単に「他律」でない、というだけではなくて、さらに積極的な「決意・決断」というあり様が「倫理的」ということにとって決定的なエッセンスであることを表現したものなわけじゃ。 |
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獏迦瀬: | 決断なくして倫理なしですか。 |
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伊丹堂: | そこらへんの切実さが柄谷さんの論ではあまり伝わってこないけどな。「主体とみなす」というと、なんか、後からでもそうみなせばいいというような、のんびりした感は否めない。それはともかくこのエッセンスにおいてカンジンなことは、単に事実の構造においては主体はないが、実践の局面では主体はあるというような「哲学的」問題ではなくて、結局のところ、ある判断をしたときに、その結果がどーあれ、それをなにか他の事物のせいにしない、というリアルな「心的体験」があるってことじゃろう。「責任」というとなにか抽象的な概念のような気がしてしまうが、ようするに「せいにせずに引き受ける」ってことじゃからな。 |
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獏迦瀬: | ヒトのせいにしないってことですよね。 |
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伊丹堂: | ちゅーこっちゃ。つまりこれは「他律でない」ということと表裏一体なわけじゃが、あえてそこを言うのは、ここに「(ナニかのせいにすることの)断念」(あるいは「覚悟」)という重要なエッセンスがあるからなんじゃ。 |
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獏迦瀬: | そー言っちゃうと、なんかいちかバチかって雰囲気もありますが…。 |
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伊丹堂: | うん、そりゃそーじゃが、世の中にはいくらでも「事実に依拠して」とか「共同体の規範」に依拠してということでは「決定」できないことが、ゴロゴロしてるわけじゃろ。それこそ大澤さんが言うように社会的な状況として責任を確定しにくくなっているわけじゃしな。それに現代科学の発展によって「生命科学」の領域でサマザマに「倫理」が問題になっている。典型的なのは脳死の人からの臓器移植の問題だけど、これなんかまさに、脳死を科学的に死とすることは出来ないから「事実に依拠して」決定することもできないし、これまで社会的な通念として持たれていた「心臓死」ではない状況だから「共同体の規範」に依拠することもできない。そこで提供するということを決めるのはまさに「倫理的な決断」でしかないわけじゃ。そして、他人の身体や生命に対して「倫理的な判断」を下す権利など誰にもないんじゃから、それは本人によるしかない。それは一つの極端な例で、自由な選択と責任がともなうような「倫理的な判断」を実ハ、ワシらは日々普段に行ってるわけじゃ。 |
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獏迦瀬: | ひるますさんが「臓器移植法改正案に反対」って最近言ってて、ウェブ用のバナーに「本人の倫理的な判断」うんぬんと書いてましたが、そういうことですか(くわしくは移植法関連ページを参照下さい)。 |
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伊丹堂: | このページでも引き合いにださせてもらってる生命学の森岡正博さんの始められた運動に賛同してってことじゃな。蛇足じゃが、ここで「倫理的」というのは、別に提供することが「倫理的にみてエライ」ということでは全然ないってことを一言いっとくぞ。柄谷さんもアラユル責任は形而上的だということを言うときに「形而上的ということに特別高邁な意味はない」と言っているが、同じことじゃな。他のなにものにも帰することが出来ない責任を「あえて」この私が引き受ける、それは形而上的というよりヴァーチャルなのじゃが、単なる虚構ではなくて「実存的」なリアリティを持っている…というようなことじゃな。ただし、エラクはないにしてもここでいう「倫理的な判断」は、単なるいちかバチかってことではないし、「自分勝手な決断」でもないってことだけは付け加える必要がある。 |
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獏迦瀬: | いわゆる「自己決定」ってやつではないってことですね。「自己決定権」と言ったら倫理的な方向性はナニもないわけで、「売る売らないはアタシの勝手」ってことですからね。その方向性を決定するのがカント=柄谷で言えば「他者を目的(自由な主体)としても扱え」というところですか。 |
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伊丹堂: | それが最後のエッセンスじゃな。それにしてもこの「他者」とは何なのか? 誰か特定の他人のため、というんではないし、第三者の審級と言われるような、ようするに共同体の内部的な、明示的な「他者」ではないのも言うまでもない。柄谷さんは公共的合意の外部にいるような他者、死せる他者、いまだ生まれざる他者というような言い方をしているが、結局は「他者そのもの」が問題なのではなく、なんらかのカタチで常に現在のあり様に反論してくるような他者が出現する可能性を常に配慮しつづけること(永続的な配慮?)という「姿勢」そのものを示しているという方がいいんじゃないかの。そういう空間的・時間的な広がりの外側に常に逃れ出ていこうとするような誰でもない他者の「内側から」思考する、というか。 |
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獏迦瀬: | 倫理的な行為が負う「責任」というのも、特定の誰彼に対するものではなくて、そういう意味での「他者」に負うものだとされてましたね。ところでたしかに「他者を目的(自由な主体)としても扱え」といっても、その「他者」はなんら明示的ではないわけだから、それを想像してみるしかないわけですよね。結果的にひとりよがりな倫理で終わる可能性もあるわけですよね。 |
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伊丹堂: | 「ひとりよがり問題」ね。「我々にとって」はそのような自由な主体としての他者という方向性は見えているが、当事者にとってはなんらそれはメイカクではない…。 |
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獏迦瀬: | そー言えばさっき触れたロールズの「無知のヴェール」についてのコメントでも「他者への配慮」ということが問題になってました。そこでも「超越的な視点なし」でということが強調されてましたよね。仮にその「他者」がメイカクに見えるような視点があればそれが「超越的な視点」なわけですよね。 |
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伊丹堂: | そうじゃよ、ただし…。 |
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獏迦瀬: | ただし、それは絶対にそこに立つことはできない視点ってことですか。 |
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伊丹堂: | じゃから、柄谷さんはアレントの公共的合意を批判してその「外部」の他者を考えなくてはならない、というような言い方をするのだが、それがいったい何によって保証されるのか?というのはハッキリしない。むしろそういう「超越的な視点」を採りうるかのような語りが「ひとりよがり」の暴力を生んだ、という反省にたってアレントは「公共性」を言ってると思うんじゃがね。 |
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獏迦瀬: | なんか堂々巡りっていうか、らせんっていうか…。 |
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伊丹堂: | というか、アレントの「公共性」をひとつの共同体なり国家の内部での合意として誤読してるだけって気もするけどね。むしろいかに「ひとりよがり」にならずに倫理的な行為を普遍的なものにしていくか、という「手続き」として、公共的合意という考えは重要だと思うけどね。つまりこの合意に参加する人々はたしかに「実態的には」ある共同体なり国家の内部に属する人間かもしれんが、しかしその個人個人は、それぞれにメイカクならざる他者を配慮しつつアイデアを出し合ったり議論をしてそのような合意を形成する、ということも「民主主義」は前提にしているハズじゃろう。柄谷さんは「民主主義」ってことがよく分かってないんじゃないか。 |
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獏迦瀬: | いや、それはちょっと…。いずれにしても「他者への永続的な配慮」ですか?、それがダイジだと。 |
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伊丹堂: | ちゅーこっちゃな。ちなみにこの意味での「他者」をうま〜く表現したのが、ずーっと以前になるが書評で紹介した若森英樹さんの『裏切りの哲学』じゃないかな。 |
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獏迦瀬: | というか、たしかその本がきっかけで「第三者の審級」論を批判するって経緯があったんです。 |
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伊丹堂: | そーじゃったかな。ともかくそこで若森さんは「僕のうちの他者、僕そのものでありながらも僕からは無限の距離を隔てた他者」という言い方で表現してたんじゃ。 |
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獏迦瀬: | その他者って何なのかと言えば「生命そのもの」なんじゃないか?ってのが、ひるます氏のコメントでした。 |
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伊丹堂: | 他者としての生命というか。ワシとしては「共有された生命」と言いたいところじゃがね。地球上に現れた生命の全体という程度の意味じゃが、これそのものは誰にとっても明示的ではない。なんらかの局所的な視点(文脈)において、その生命について配慮することでその都度コトとして明らかにされるにすぎない。この配慮によって創造されるコトが、ウラハラに「共有された生命」のコト的発現、すなわち「精神」でもある、というのが、ワシが今まで言っとることの意味なんじゃがね。 |
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獏迦瀬: | あ、そーいうコトだったんですか。 |
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伊丹堂: | まぁこれは例によって「伝承の語り」(ガクモン的ではない)ってことじゃけどね。ただし、ワシとしてはこのような「精神」でも「公共的合意」でもいいけど、なんらかの媒介を置いておかないと、柄谷さんのいう「構造的な認識」と「倫理的な責任の問題」との乖離があまりに大きいのでは?と思うけどな。 |
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獏迦瀬: | そーっすね、柄谷さんの、あるときは「括弧に入れ」て、因果論的な原因を究明したり、またあるときは「括弧をはずし」て、責任を問うという言い方だと、非常に恣意的に解釈しようとすれば、どーにでも解釈できるって感じは否めません。いったい誰がどの立場からその括弧に入れたりハズしたりって作業をするのかがはっきりしないわけです。 |
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伊丹堂: | 戦争責任や政治責任についての議論はそれ自体は非常にメイカクなんじゃが、それと「形而上的責任」をどうリンクさせているのかという点においてはアイマイだって問題でもあるな。ワシ的に言えば、社会的な現実においては単に人にメーワクをかけた結果を補填するという意味での「償い」ではなく、その人が事実問題として「倫理的に行為したか否か」が問われる、そういう局面がある、ということがこの柄谷さんの論では決定的に欠けている、ということになる。 |
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獏迦瀬: | それは今問題になってる警察不祥事なんかにも関係するわけですかね。 |
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伊丹堂: | そもそもああいった不祥事、とくに公務員などが、その立場にいることによって当然期待されている「倫理的」行為を実行しなかった(「あえてしようとしなかった」)ことについて「責任」を問えるのは、彼らに対してそのような期待が「合意」されているからじゃろう。そこでは「倫理的であること」がひとつの現実的関係になっているわけじゃ。 |
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獏迦瀬: | そのへんは前の質問コーナーのところでもふれてましたね。 |
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伊丹堂: | 公権力という問題じゃね。それとかかわるのが法律という問題じゃ。カント=柄谷さんの論でも「法」は、人が倫理的に行為することが困難なことを補完するためにある。ワシ的に言えば法は「精神」の辺縁、ということになるわけだけど、カント=柄谷さんの倫理についての「定義」はあまりに「純化」されているので、それを補完しうるような「法」は「国際法」でしかない、ということになっている。しかしワシ的に言えば、国内法といえども単に共同体規範の明文化ではなくて、なんらかの「倫理」の補完(辺縁)としなくては、あまりにも現実から解離したものにならざるをえないんじゃなかろーか。つまり、いきなり純化した形態での「倫理」だけが問題なんじゃなくて、様々なカタチでの「公共性の精神」の発現の段階がありうるってこっちゃな。 |
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獏迦瀬: | そうですね、あまりに純化された倫理だけを持ち出されては、「倫理的に生きよう」って気が失せる、ってもんですね。 |
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伊丹堂: | まぁそんなとこじゃ。柄谷さんの議論はイチバン最初に言ったように、そういう「純化」によって議論の風通しが良くなる境地を開いたわけだけど、それを現実に適用していくには、いろいろと考える点も多いってことになるかな。とにもかくにも、まだまだこの柄谷さんの本から考えさせられることはたくさんある。おいおいどっかで触れるかもしれんが、今回はここまでにしておこう。噛めば噛むほど味がでる、ほんと、いい本に出会えたってコトじゃ。 |