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なるほど…。法律か倫理かって問題をいえば、そもそもの発端の「蛇足」で、獏迦瀬くんが刑法的な実際問題を聞いてきたのに、ワシがそれを「実存的な問題」にすり替えたってのが、悪かったわけじゃがね(『オムレット』92頁)。
いずれにしても、この問題は別メールでも話題になっとるよーじゃし、ワシとしてはざっくばらんに言っとくが、この問題はよーするに「正義、善」なるものは何によって保証されているのか?ってことじゃろうか。つまり生命そのものに「善」も「悪」もないし(つまり個体としての生命に、善そのものや悪そのものが「内在」するわけではない)、物質的世界そのものにも善悪はない。極端にいえば、「法」(という言語体系)の中にすら「善」も「悪」もない。ではどこに「善悪」が生じるのかといえば、これは(肥留間氏風にいう)コトの創造が、必ず「他者性」の配慮によってしかなされ得ない、というところに生ずるのじゃろう。まったく一人だけの行為や考えですら、それは他者を想定したなんらかの「文脈」の中でのコトの創造なのであって、そこで想定される「ありうべき」他者との関係の中で、それは「よい―悪い」という価値判断を伴うものになっているわけじゃ。したがって人間においては、「あらゆる行為(思考も含む)は倫理的である」ってことになるわけじゃな。もちろん、ここでいう「倫理的」というのは、当の本人にとってではなく、それを分析的に見る視点にとってってことじゃが。
つまり人間にとって何がリアルかが決定されておらぬように、何が善悪か?、どこまでが「自分」が引き受けるべき範囲なのか?、も確定されてはいない。「当の本人にとって」の倫理は常に「ひとりよがり」になる運命にあるわけじゃ(ひとりよがり問題は『オムレット』117頁)。もちろんそれでは社会が成り立たない、「人道が立ちいかぬ」わけじゃから、世の中には、法律や暗黙のルールというヨリドコロがあるわけじゃ(というか、「目的」によってルールが作られる、というよりは、実際は、それに先駆けてルールの方が立ち現れるわけじゃが、ま、ここは「お話」としては、ってことじゃ)。
前から言っとるように法は「辺縁」じゃから、そこに人が倫理的に生きるということの「意味」が書き記されているわけではない。しかし少なくとも民主主義政体を採った社会においては、次のような「精神」は表明されていると考えるべきじゃろう(実態はおいといて)。つまり、いかなるかかわりといえども社会的ひろがりを持ってしまうという空間的な関係と、その行為が将来に及ぼす影響という時間的な関係を、ともに最大限考慮することによって、出来る限り個人の自由と、社会的公平性を実現していこう、という「精神」じゃ。「法とは体系的に整理された問題解決規準である」(武城想路、法学者)というように、法は「規準」(ヨリドコロ)にすぎぬものであると同時に、よりその精神に適合すべく努力したことの「結果」として、ようやくそのように体系的に整理されてあるものでもある。その背後には「精神」があるのじゃ。「精神」とは、共有された生命のコト的な発現(――というより、そのような発現を可能にしているような「文脈」あるいは「モード」――99.10.15付記)、といってもいいじゃろう。
もちろん、「精神」そのもの(実体)が存在するかどうか、とかいう問題ではない。しかし、「当人にとっての倫理」が成り立つのは、このような意味での「精神」との接点において、ってことになるじゃろう。つまり(そうしなくてもいいにもかかわらず)人は、そのような「視点」から、自分を捉え、世界へかかわろうとする。その方向性をいま、「精神」と呼んでいるわけじゃ。この「精神」は方向であり、可能性であるから、なんら明示的に確定したものではない。それは、その都度、その個人が決断し、その決断を自分の責任として引き受ける、というものでしかないのじゃ。いかに決然として倫理的たらんとしてさえ、「ひとりよがり問題」をさけて通ることはできない。普遍的なものを模索せんとするものでありながら、逆説的にも、まったく孤独なる行為。いわば「精神」を目がけるコトの創造、そのものじゃろう(というか、肥留間氏のいう「コトの創造」を倫理的な観点からみれば、そういうことになるじゃろう… 注1参照)。それにしても、なにゆえ人は「精神」的なものを引き受けんと「覚悟」するのか?(それによって自分が苦境に立たされる場合もあるにもかかわらず…)といえば、そこにこそ「愛」の問題があるのではないじゃろうか。それはまた他の機会に考えることにして、お茶を濁しとくがな(それにしても、世界中の争いごとのほとんどは、人々がむしろ「倫理的」であろうとしたことの結果だということは、皮肉なことじゃ。むろんそれを「失敗」だということはカンタンなことじゃが)。
ちなみに、この精神を、社会的に代行するものが「公権力」に他ならぬ。権力というと悪いイメージしかないが、それは権力が私的暴力という起源(封建的支配)を持っているから、であり、また現在に至っても、それを私物化するもの絶えず、また私物化せんとする意志が、ある種の地縁的な「世間」によって是認されてしまっている、というところから来てるわけじゃろう。しかし起源や実態がどーあれ、ワシらは「権力」を自分自身の「倫理的な行為」の代執行であると考えねばならぬし、実態がそうでないなら、そうなるように変えていく、それこそ「倫理的な義務」がある。もし「権力」をあくまで敵対する(己の外部にある)モノと見なすなら、それは「精神」というありようを断念するということにもなるじゃろう。この点を見逃したあらゆる「権力理論」は不毛じゃ、と一応言っとくぞ。
ってわけで、脱線しまくっとるが、カンジンなことは、そのように「当人が倫理的であること」「覚悟によって生きること」を万人が実現するということは不可能だ、ということじゃろう。それは人に「哲学すること」を教えることが不可能だ、ということと同じじゃろう。しかしそれにもかかわらず、社会は崩壊しない。それはむしろ、人が体系化された社会的行為を「非倫理的」に「反復」しているからじゃろう。この「反復」のヨリドコロを一般に「世間」と言っているわけじゃ。さしあたってたいていは、それで問題ないとしても、人がコトを創造し、かかわりあい、関係がフクザツ化していくことを、止めることはできない以上、「反復」だけで世の中はなりたってはいかない。少なくとも人は、自分の「世間」や「立場」を超えて、「精神」の高みへ向かって開かれている必要があるってことじゃろう。「そこそこに倫理的である」ってのは、このことじゃ。そのためには、前にも言ったように「教育」としては、「万人に倫理的に生きることを求める」ってことをすべきだってことじゃね。「教育」というより、広い意味での「伝承」といった方がいいかもしれんけど。いずれにしても、単に具体的なルールを教えるってことではなくて、自分の立場を超えた場所からモノを見るっていう考え方そのものを伝えなくては意味がない。結局のところ、前に言った「個体としての生命」にせよ、この「精神」という言い方にせよ、この「伝承の語り」という位置にあるんじゃな。
ただし公的な権力にかかわるものは、「倫理的」たらんと志向してあることが、求められて当然じゃろう。公的な権力が我々の倫理の代行だとしても、それは自動的になされるキカイのごときものではないからじゃ。社会的に決定されていることはすべてヨリドコロにすぎないってことじゃな。したがって彼らは(その立場と引き替えに)それを為すことを求められて当然で、為しえたのに「為さなかった」ことにも責任を負うという根拠がここにある。これは今のところ、社会にかかわる人々の、公権力への監視によって実現させていくしかない。そのためには、やはり社会を構成する人々が「そこそこに」倫理的でなくてはならないわけで、これもまた「教育」によるしかないじゃろう。
ところで件の「アフリカの夜」というドラマの犯罪者は、結局「罪を引き受け」たのじゃろうか? ワシは見とらんのじゃが、察するに、そもそも「罪を引き受けよう」としない心のあり様(罪の意識のなさ)の背後には、当人にとっての倫理という以前に、「人格障害」という問題があるように思うのじゃ。「人格障害」といってもイロイロじゃろうが、ここでは「病的なまでの共感能力の欠如」のことじゃ(「少年A供述書について」参照)。つまりこの場合の「引き受けない」というのは、「引き受けるか、引き受けないか」という葛藤があって、その上で「引き受けない」を選択しているわけではないじゃろう。葛藤が生じるのは、自分が意志する・しないにかかわらず、被害者か何かわからないが、ともかく何らかの他者への共感がオートマチックに生じて、その視点と自分の現実との間が引き裂かれるからじゃから、そもそも共感能力がなければ、葛藤も生じないわけじゃ。アダム・スミスが「道徳」の根源を「共感」に見たそうじゃが、まさに卓見、共感がなければ、そもそも他者への配慮としての倫理的行為というものもありえないのじゃ。ところで「あらゆる行為は倫理的である」という視点からみれば、人格障害者というものは(実在する人格障害者のことではなく、いわば理論的に、じゃが)、そもそもの日常的な行為(コトの創造)においても、実は「他者への配慮」が、うまく機能していないはずじゃ。つまり「意味としての生活」は完全に破綻しているハズ。しかし、ワシらが「外から」人格障害者をみても、そのように「破綻」しているようには、とりあえずは見えない(つきあえば、すぐに見えてきてしまう…)。そこが「分裂病」などの精神病とは決定的に違うところではある。
「人格障害は治療できない」と春日武彦氏は明確にどっかで言ってたと思うが、人格障害者であれなんであれ、そういうそもそもの「共感」を欠いた人間を「倫理的」にすることは、不可能じゃろう。ふつうに「共感」がある人間に、「君はイヤだろうが、この世には倫理というものがあるのだよ」ということを「わからせ」るのとは、まったく違うレベルの難関がそこにはあるわけじゃ。もちろん、どんな人格障害であれ、キセキによって「うまれかわる」可能性がないわけではない(キセキでも起きなきゃそれができない、というのではない、この肯定的なニュアンスを読みとられよ)。まっ、そういうコトがワシの「人類への愛」の表現ではあるわけじゃな。
注1)ここでいう「倫理」が基本的に、政治・社会運動などの領域に限定されるものではなく、行為一般、コトの創造一般に関わるものであることに注意。そもそもコトの創造というアイデアは、斎藤環氏の宮崎アニメをめぐる論考「「運動」の倫理」(『文脈病』所収)によっている。ここで、斎藤さんは次のように言っている。
…断るまでもないが、ここでいう「倫理」とは、性や暴力の表現にまつわる小うるさい規制とはほとんど関係がない。あるいはすでに陳腐化した、テーマの倫理性(作家自身がまっさきに忌避する「エコロジー」「ヒューマニズム」を含む)も意味しない。一種の禁欲には違いないが、それが結果として、自由と解放の感覚をもたらすような語りの姿勢。表現を狭く枠付けるのではなく、むしろ技法上の飛躍を要請し、表現の幅を押し広げるような態度。制約であると同時に生成を方向づけるこの創造の核を、ここではさしあたり「倫理」と呼ぶことにする。
つまり逆説的だが「悪魔に魂を売り渡してでも」いい作品を作りたいという芸術家、そしてなとんしてでも真理を発見したいと実験に打ち込む科学者こそが「倫理的」なのであり、それを社会的に規制しようとするものが「非倫理的」なのだ。ただしその創造には必ず「他者性」が繰り込まれている(その意味で他者への配慮を通じて社会的な配慮へと広がっていく可能性に開かれている、のでなくては本当の意味で倫理的とはいえない)ということに注意。そして、むろん規制する側にしても単なる「世間的」な対応としてではなく、充分に事実を知り、公平性を考慮しようという態度をもつならば、それはこの論で言う「倫理的」な態度なのである。そして世の中(関係性の中)に、なんらかの責任をもつ者は、すべからくそうあるべきだ、というのがここでの主張なのだ。(99.11.24付記)
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